江戸文化を改めて考える――AI時代の僕らの生き方

AIが発展した先に、どのような文化が生まれるのだろうか。仕事がどう変わるか、何が自動化されるかという問いとともに、私は、そのとき人間が何を面白がり、何を誇りにして生きるのかを考えたい。テーマは民主化である。その未来を想像するうえで、江戸時代の文化が一つの手がかりになるのではないか、と私は思った。

私には、いまの社会では、お金を増やすことが、生活を支える手段であると同時に、自分の価値を示す行為にもなっているように見える。どれだけ稼いだか。何を買えるか。どのような暮らしを手に入れたか。そうしたことが、人の成功を語る共通の言葉になっている。

例えば、ヒップホップの一部に見られる、高価な服や宝飾品、経済的な成功を誇示する「フレックス」にも、その感覚は表れている。ただし、そこには困難な境遇から抜け出したことの誇りや、尊厳を取り戻す意味もあるだろう。ヒップホップ全体を金銭への欲望だけで捉えることはできない。それでも、富を目に見える形にすることが、承認の強い手段になるという点には、現代社会の一面がよく表れている。

私は、お金を稼ぐことを恥じるべきだとは思わない。暮らしの安心も、創作を続ける時間も、多くの場合、お金によって支えられている。ただ、人の面白さや生き方の豊かさまで、その尺度に引き寄せられすぎてはいないだろうか。書いた文章にも、描いた絵にも、まず「それで稼げるのか」という問いが向けられるとき、文化に参加する理由そのものが狭くなる。 確かに政府が推進する投資など、昨今では金を稼ぐこと、は恥じらいを伴わないことになっているが、やはり日本人の感性にはそもそもお金を稼ぐことにどこかしら後ろめたさを持っている人も多いだろう。そうした価値観が変わっていくのはいいのかもしれないが、文化の発展を考えたときには、やはり再考しなければならないと思う。

そしてAIの発展は、この関係を変える可能性を持っている。

創作の民主化。AIを介することで、これまで技術や費用の壁に阻まれていた人にも、創作の入口が開かれつつある。もちろん、入口が広がることと、誰もが同じ表現に到達することは別である。何をつくりたいのか、何に心を動かされるのか、どこで完成とするのか。そこには、その人の経験や判断が残る。

ここから、お金の価値がただちになくなるとは言えない。生活に必要な資源が無限になるわけではなく、技術による利益が一部に集中する可能性もある。それでも、創作にかかる負担が小さくなれば、売れる見込みがなくてもつくる、少人数にしか届かなくても続ける、という選択はしやすくなるかもしれない。

そのとき広がるのは、文化を買って楽しむことに加えて、自分も文化をつくる側に加わる暮らしではないだろうか。

ここで、江戸文化が気になってくる。江戸時代には出版と流通が発達し、書物を享受する層が広がった。江戸の文化も、商業の仕組みと深く結びついていたのである。だから、江戸をお金と無縁な理想郷として描くことはできない。私がそこに見いだしたいのは、富が存在しながらも、それだけでは決まらない文化的な価値である。

芭蕉の作品を読むとき、私は、身近な風景や旅先の一瞬に、どれだけ深く注意を向けられるかを問われるように感じる。落語を聞くときには、金のない人物や失敗ばかりする人物が、妙に魅力的に見えてくる。立派さだけでは捉えられない人間の姿が、言葉と笑いによって、こちらの暮らしに近づいてくる。

そこから受け取りたいのは、貧困への賛美ではない。貧困は人の選択肢を奪い、生活を傷つける。そうした苦しみを風流という言葉で覆うべきではない。ただ、持っているものが少ないことによって、その人の生の価値まで少なくなるわけではない。そのことを実感できる文化は、これからも必要だと思う。「貧乏はするものじゃありません。味わうものですな」という古今亭志ん生の言葉を思い出すが、貧乏というのは、自ら楽しむものなのである。こうした価値観を今こそ大切にしたい。

また、俳諧には、他者と句をつなぎ、一つの作品をつくる営みがある。芭蕉も、複数の作者による共同制作に参加していた。 ここには、完成品を一人で所有することとは異なる楽しさがある。相手の言葉を受け取り、自分の言葉を返す。そのやりとりを通じて、誰かと時間を過ごし、世界の見え方を少し変える。

AI時代にも、このような場はつくれるはずだ。仕事のあとに短い詩を持ち寄る。地域の風景から音楽をつくる。調べた土地の歴史を文章や絵にして交換する。AIもそこに関わり、表現を助けたり、思いがけない応答を返したりする。作品が大量に生まれる時代には、何が完成したかに加えて、誰と、どのような時間を過ごしてつくったかが、いっそう大切になるのかもしれない。

また私は農業に携わっているので、この構想を、画面の中だけの話にはしたくない。

農には、季節や天候、土や作物の状態に応じて働く時間がある。情報を知っているだけでは済まず、その場に立ち、見て、手を動かさなければならない。思いどおりにならないものに関わり続ける経験が、暮らしの根にある。

だからといって、農業の大変さや非効率を美化したいわけではない。負担を減らせる技術は必要であり、AIにも役割があると思う。そのうえで、作物が育つ変化に気づくこと、食べ物を育てて誰かに渡すこと、土地の違いを身体で覚えることには、効率だけでは言い尽くせない意味がある。

畑で感じたことが句になり、土地の記憶が物語になり、収穫したものを囲む場で歌が生まれる。そうした暮らしを考えると、農と文化は、別々の領域として遠く離れているわけではない。日々の仕事や生活が、表現の素材になり、表現を通じてもう一度味わい直される。

同時に、デジタルへの依存が深まるほど、私は、その仕組みが損なわれたときのことも考える。昨今のハッキングまつりなどがいい例である。アカウントやサービスに問題が起きたとき、自分の記録や人とのつながりまで失われてしまうとしたら、暮らしは心もとない。

デジタルもアナログも両方大切である。デジタルで広くつながりながら、身近な場所にも関係を育てておきたい。オンラインで作品を共有し、近所でも集まる。AIと考えを深め、その考えを実際の土地や身体の経験に照らす。紙に残した文章や、顔を合わせて交わす言葉も、その関係の一部になる。新しい技術を暮らしに迎えることと、手触りのある世界を大切にすることは、両立できる。

ただし、こうした文化がAIの発展だけで自然に生まれるとは限らない。生み出された余裕が、さらに仕事を詰め込むために使われることもあるだろう。創作の場でも、収益や評価を競う圧力は残る。技術が可能にした時間を、人が自由に使えるようにする生活の基盤と、売れない作品にも居場所のある関係が必要になる。

江戸にも競争はあったし、現代の小さな文化の場にも、序列や排除は生まれうる。粋や教養が、新たに他人を見下す尺度になってしまえば、参加する喜びは失われる。うまくなくても加われること。詳しくなくても面白がれること。途中で離れ、また戻ってこられること。私が未来に望む場には、そうした余地があってほしい。

これらはまだ予測というより、一つの願いを含んだ仮説である。若い世代のなかから、稼ぐことへの意欲とともに、稼ぎには換えられない楽しみを育てる感覚が広がっていくのではないか。AIによって創作の入口が広がるなら、その先に、生活のなかで表現を交わす文化を育てることもできるのではないか。

日本文化の未来を考えるとき、私は、過去の形式を保存することに加えて、過去の文化が人にどのような楽しみ方を与えてきたかを受け継ぎたい。身近なものをよく見ること。失敗や不格好さを笑いに変えること。他者の言葉に自分の言葉をつなぐこと。それらを、AIと共に生きる暮らしのなかで、新しく試してみたい。

畑仕事のあとに一句つくり、誰かに見せる。その誰かが、別の一句を返してくれる。そんな小さな往復にも、これからの文化は始まりうると思う。